聖書のみことば
2022年9月
  9月4日 9月11日 9月18日 9月25日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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9月11日主日礼拝音声

 神の国の民
2022年9月第2主日礼拝 9月11日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/マルコによる福音書 第10章13〜16節

<13節>イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。<14節>しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。<15節>はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」<16節>そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。

 ただいま、マルコによる福音書10章13節から16節までをご一緒にお聞きしました。13節に「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った」とあります。
 幼い子供たちを主の御許に連れてきた人々は、主イエスに触れていただこうと思ったのだと述べられています。連れて来た大人たちが母親だけだったのか、両親だったのか、それとも子供たちの親戚だったのかということについては述べられていません。
 主イエスは癒しをなさる時、具合の悪い人の頭や患部に手を置いて癒すということがよくありました。けれどもここでは、子供たちの具合が悪かったわけではありません。神からの特別な祝福の力が主イエスの上に働いていると考えた大人たちが、子供たちにも祝福の力を受け継がせたいと願って連れて来ています。主イエスに触れていただいて祝福していただければ、それだけで連れて来た大人たちは子供の将来について安心することができると思っていたのでした。その思いは切実なものだったに違いないのです。

 しかし考えてみると、それは利己的な願いでもあります。おそらく、連れて来た人々の間に主イエスについての正しい理解があったわけではないでしょう。主イエスが人々に告げ知らせていた、「神の国が来ている」ことについても、それを聞いて「悔い改めて福音を信じ、主イエスに従おう」としていたとは、どうも思えません。ましてや、主イエスが神の御支配をどんな人も信じられるようになるためにエルサレムの十字架に向かって厳しい歩みを一歩一歩進めておられるのだということも分かっていません。
 この人たちはただ、自分の子供たちの幸せだけを願い、そのために名の知れた先生の一人である主イエスに触れていただきたいと思って、ここに来ています。

 弟子たちには、子供たちを連れて来た人々のそのような思惑がよく分かり、分かればこそ、この人たちが真剣に主イエスに従おうとは思っていないし、そうである以上は主イエスを煩わせるべきではないと判断して、彼らを叱りました。この弟子たちの行動と判断は、当たり前のことのように思えます。もし仮に、わたしたちがこの時この場に弟子の一人として居合わせていたなら、この弟子たちと同じ行動をしたのではないでしょうか。

 ところで、そういう弟子たちの行動を御覧になった主イエスは、この時、激しく憤り、怒りを露わになさいました。このように主イエスが荒ぶっている姿というのは、福音書の中に滅多に現れません。主イエスが激しく感情を爆発させるようなことは、おそらく大変珍しかったのだろうと思われます。
 今日の記事と同じ出来事を記していると思われる記事が、マタイによる福音書19章とルカによる福音書18章に出てくるのですが、マタイやルカでは「主イエスが憤られた」という言葉は削られています。ただ主イエスが弟子たちの背後から言葉をかけられ、「子供たちをわたしのところに来させなさい」とおっしゃったことだけが記されています。おそらくマタイやルカは、激しく憤ったことが書いてあるマルコの記事を見て、こういう姿が普段の主イエスのお姿と比べて似つかわしくないように思い、その部分を削除したのでしょう。
 けれどもそのように、憤る主イエスの姿が削られてしまうこと自体が、この日、主イエスが弟子たちに向かって発した憤りが、どれほどに激しかったということを表しています。14節に「しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。『子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである』」とあります。
 弟子たちは、主イエスを怒らせようとしたわけではありません。むしろその逆です。弟子たちは、押し寄せてくる群衆と幼子たちが主イエスを疲れさせたり、あるいは主イエスが人々を教えようとなさるのを妨害しないようにと、たしなめたつもりでいました。ところがそういう弟子たちの行動は、知らず知らず主イエスの逆鱗に触れてしまったのです。弟子たちとすれば、これは予想外だったに違いありません。

 しかし一体、何が主イエスをこんなにも怒らせているのでしょうか。弟子たちは主イエスのお身体を気遣いました。けれども、主イエスが何を最も大事になさっているかということを、この時、忘れていたのです。
 考えてみますと、主イエスはこの時、どうして人々の間を歩みながら、エルサレムに向かっておられるのでしょうか。主イエスは人々に、「神の恵みの御支配のもとに生きるようになりなさい。神の国が来ているのだから」と知らせようとなさっていたのでした。
 ところが弟子たちは、そのことに思いが至りませんでした。弟子たちは主イエスのお身体を気遣っていましたが、自分では気づかないうちに、子供たちを主イエスから遠ざけ神の国から締め出すような真似をしてしまっていたのです。主イエスが、「すべての人を神の慈しみの御支配のもとに招こう」と考えて行動しておられるのであれば、弟子たちがこの日したことは、主イエスの思惑とは正反対のことをしているということになります。主イエスは幼い子供たちも含めて、すべての人を神の慈しみの御支配のもとに招こうとしておられるのに、弟子たちは明らかにそれを邪魔だてして、子供たちを招きから外に追い出すようなことをしてしまいました。そのことを、主イエスは激しく憤られたのです。

 このことは、ちょうど主イエスが弟子たちに、「今からわたしは苦難を受けるのだ」と、最初にお告げになった時、ぺトロが「決してそんなことがあってはなりません」と、主イエスのことを思って諌めたことに対して、主イエスから「退け、サタン」という大変厳しい言葉をかけられたことによく似ています。
 弟子たちにとって「神の国の民として生きる」ということは、どういうことだったでしょうか。弟子たちは、「地上を歩んでおられる主イエスと過ごしていれば、それは達成できることなのだろう」と思っていました。確かに、主イエスも地上の御生涯においては肉の体を持っておられましたから、当然疲れるということもあり得ました。それで、「主イエスをあまり疲れさせないようにしたい」と弟子たちは配慮して、子供たちの接近に、つい神経質になってしまったのです。
 ところが、それが弟子たちの誤解でした。主イエスが人々に伝えていた「神の国の交わり」というのは、ただ地上においてだけ主イエスと親しく過ごすということではなかったのです。弟子たちが心得違いをしているということを、主イエスは子供たちを指し示しながら、「神の国はこのような者たちのものである」と教えられました。「このような者たちのもの」と、主イエスは言われます。こう言われるからには、神の国、神の慈しみと恵みの御支配のもとに招かれて生きる生活というのは、子供に限ったものではないのです。

 それだけではなく、また別の点でも、どうも弟子たちは思い違いをしていたようです。それは、弟子たちが主イエスのもとに子供たちを連れて来ようとする大人をなぜ叱ったのかというところに表れています。
 最初に話しましたように、主イエスのもとに子供たちを連れて来ようとした大人たちは、主イエスが宣べ伝えておられた「神の国が来ている」ことについて理解していたわけではなく、主イエスを、神からの特別な祝福の力をもたらしてくれる有り難い打ち出の小槌のような存在と考えていました。弟子たちは、その点が分かっていたからこそ、人々を主イエスに近づける必要はないと考えました。
 弟子たちは、主イエスとの交わりというのは、「主イエスが宣べ伝えておられる神の国のことが理解でき、悔い改めて自分から主イエスに従おうとする」、そのように生き方の向きを変えるのでなければ意味がなく、「主イエスのおっしゃる御言葉を聞いて、そのことに真摯に向き合おうとしない人は、主イエスとの交わりに値しない」と理解していました。ですから、単純に主イエスを有り難いお方だと思って、子供たちを主イエスのもとに連れて来ようとする人々を遮ぎろうとしたのでした。
 また、ここに連れて来られた子供たちは7歳未満だったとか12歳未満だったとか言われているのですが、おそらくとても小さい子供でしたから、主イエスが語る福音の教えを大人のように理解することは不可能です。それで、弟子たちからすれば、子供たちが主イエスに触れていただくことも無意味であるように思われたのでした。

 ところが主イエスは、そういう弟子たちの態度に憤慨なさり、弟子たちの考え方に対して、「それは違う」と言われました。14節に「しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。『子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである』」とあります。弟子たちが子供たちを遮っていることに怒り、「神の国はこのような者たちに与えられるのだ」とおっしゃっています。これはどういうことなのでしょうか。
 弟子たちの思い違い、それは、弟子たちが「わたしたちは神の国の事柄が分かっているし、悔い改めることが出来ている。すべてを捨てて主イエスに従うことが出来ている。けれども、子供たちやその子供たちを連れて来た大人たちは悔い改めが出来ていない」と、子供たちや子供たちを連れて来た大人たちと自分たちの間に線を引いたこと、そこにあったのではないでしょうか。この後、何回か出て来るのですが、弟子たちは自分たちのことを、「全てを投げ打って主イエスに従うことが出来ている者たちだ」と考えていました。そしてそういうプライドが、時に自分たちと違うあり様をする人々や子供たちへの冷淡な態度にも繋がっていたのです。

 けれども、ここで主イエスに従っている弟子たちが、本当に自分を捨て、一切を投げ打って主イエスに従っていたかというと、そんなことはありませんでした。そのことがやがてはっきり目に見える形で現れる時がきます。それは、主イエスがゲツセマネの園で逮捕される時です。主イエスが逮捕された時、弟子たちは本当には全てを捨てておらず、自分を守ろうとして、主イエスが敵の手に捕えられると主イエスを見捨てて逃げ散ってしまいました。
 しかし主イエスは、そういう弟子たちであっても、神の恵みの御支配のもとに招いて、神の慈しみの許を生きるようにと導かれます。主イエスは子供たちを指し示しながら、弟子たちに教えられるのです。15節に「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」とあります。「はっきり言っておく」というのは、主イエスが大事なことをおっしゃる時の口癖です。とても大事なことを伝えるのだと言って、「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と、主イエスは言われました。
 子供たちというのは、弟子たちと違うあり方をしています。子供たちは、弟子たちのように主イエスの言葉を理解し自分から従って行こうとして、主イエスに近づいて来るのではありません。そうではなくて、主イエスの側で子供たち一人ひとりを招いてくださる、子供たち一人ひとりを主イエスが深く愛して「わたしのもとにおいで」と言ってくださるからこそ、主イエスに近づきます。「子供のように神の国を受け入れる」というのは、神の慈しみを受けて生きる生活には、主イエスの招きと導きが不可欠なのだということを教えています。

 そして実は、この点は、私たち自身が自分を振り返って考えた時に、まさしくその通りと言えるのではないでしょうか。私たちは自分を振り返りますと、例外なくこの主の招きがあったからこそ、主イエスを信じ、神を信じてキリスト者としての生活を過ごすようになっているのだと思います。
 教会では昨日の午後、「マルコの会」が行われました。その中で、どうして自分がキリスト者になったのだろうかと、参加した方一人ひとりが振り返ってくださる機会がありました。洗礼を受けてキリスト者となった成り行き、道のりというのは、皆それぞれに違っていましたけれども、しかしこれまでの人生の中で、「洗礼を受けて、キリスト者となって生きるように」と不思議に招かれる機会があり、そして、自分とすればまだ信じているかどうかよく分からないところもあったけれど、しかし招きを受け入れキリスト者になったのだという点では、皆さんが一致しておられました。
 子供たちが主イエスに招かれるまま、主のもとに近づいて、そして一人ひとりが抱き上げられ、手を置かれ祝福されるように、キリスト者もまた、主イエスの招きによって教会の群れに加えられ、神の慈しみに慰められ力をいただいて生活するものとされていきます。

 「このような者たち、子供のように神の国を受け入れる人たち」というのは、外見が子供である人たちという意味ではありません。わたしたち自身、わたしたち一人ひとりのことを、主イエスはおっしゃっておられます。主イエスが「わたしに従ってきなさい。わたしのもとにいらっしゃい」と招いてくださる招きに応じて、従う者とされたために、私たちは今の生活に導かれています。

 そして、そういう主イエスの招きは、もしかすると今の時点でまだ信仰を言い表していない方々にも呼びかけられているということがあるかもしれません。

 私たちはこの呼びかけに応答して、神の慈しみの中に生きる新しい者とされたいと願います。お祈りをお捧げしましょう。
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